2010年9月23日木曜日

デフレスパイラルからの脱出

東洋経済の記事にデフレスパイラルの構造が非常に簡単かつわかりやすく示されていた。あくまでも簡略図なので、これだけですべて理解したつもりになるのは間違いだろうが、本質的な事柄に集中するには有用だ。
同記事によると、
(1) 企業収益が悪化する、と
(2) 賃金が下落する、と
(3) 購買力が低下する、と
(4) 物価が下落する、と
再び(1)へ戻る。
この連鎖の中で(1)以外は強い因果関係がある。
収益が悪化している中で賃金を上昇させる企業はありえない。そのような企業は競争力を失う。もちろんそのような戦略が全くありえないわけではない。人材の能力に強く依存する分野では人材の労働意欲が企業の競争力に直結する。そのような分野では労働配分を大きくしても、かえって企業収益が高まることもある。しかし、そのような分野は限られるし、その分野でもそのような戦略をとりえる企業は例外だろう。たとえば、投資ファンドなどの金融業などが該当するだろう。
賃金が上昇しない中で支出を増やす人はいない。長期的な視野からライフプランで必要と思われる特殊な支出はありえる。しかし、これは支出を増やしたというより、たまたまそのタイミングで支出したにすぎない。よって、支出が増えたわけではない。たとえば、車の買い替えやマイホームの購入などだ。これらはむしろ不況の影響で実際には減る。もしも賃金が変わらないのに支出だけ増やす人がいれば無謀としかいいようがない。そのような人が多ければ日本は破滅するだろう。例外は退職者だ。退職者は基本的に収入より支出が大きい。しかし、現在の福祉の中では退職者さえ支出より収入が大きいかもしれない。少なくとも高齢者の方が若年者より経済的な余裕があることは確かだろう。それでも購買力は低下する。
買う気のない人々に売るためには価格を下げるか、ほしいと思わせる商品を作るしかない。後者の道を進むことができればよいが、難しい。多くは前者の道を進まざるを得ない。結果として物価は下落し、デフレとなる。
物価が下がれば商品の単価も下がり企業の収益は増えない。しかし、これは改善の余地がある。企業の収益は商品の単価でなく利益率に依存するからだ。1000円の商品から300円の利益を得るより、900円の商品から400円の利益を得る方がよい。円高で原材料の輸入が安くできるなら利益率を高めることもできる。また、国内はデフレでも海外はインフレなので輸出を増やせばよい。即効性のある栄養剤としては企業減税もある。これらの対策は口で言うほど容易でないことは理解しているが、全くの不可能、無策でもない。つまり、デフレスパイラルから脱出するは(1)を変えるしかない。
企業収益が改善されてもすぐには賃金に反映されないだろう。賃金に反映されるには人手不足の状況が生まれなければならない。しかし、有能な人材は国内に求めずとも海外で得られる。若者、特にゆとり世代の労働意欲の低迷は深刻だ。優秀な人材を育てるどころか、無能な人材を育ててしまった。正確には無能というより無欲だ。しかし、能力が発現しないことに関して両者は等しい。企業が国内で人材を得るとすればゆとり世代をスキップした次の世代だ。これは日本の福祉政策にも大きな禍根を残す。多すぎる年金者に加えて多くのニートをかかえることになるからだ。しかし、デフレスパイラルを食い止めるには改善された企業収益を広く分配する仕組みが必要だ。ある程度の時間差をおいて企業税を増やす必要があるだろう。
(2)の歯車まで回り始めたら、残りの歯車も回りだす。デフレスパイラルは自然と解消される。

EU進出はドイツから

ユーロは安くなったが、それでも市場としてのユーロ圏は魅力的だ。
現在のところEUではドイツの一人勝ちだそうだ。ユーロ圏ではドイツが経済の牽引車となっている。
ビジネスチャンスは牽引車の場所に多い。したがって、EUにこれから本格的に進出しようという企業はドイツに最初の支店を持つべきだろう。私的な印象からもフランスよりドイツの方が自由であり、ビジネスチャンスが多いように思える。
ドイツの一人勝ちが確定するとEUは困ったことになる。通貨が統一されているため為替レートで輸出入を制御することができない。ドイツ製品の流入を止めることはできない。しかがって、ドイツに工場があればEU全体に輸出することができる。
証券取引所もフランスよりドイツの方が大きい。資金の調達も容易だということだ。

鉄板焼きステーキ

出張で肉の有名地に連泊した。最初は飛騨牛の飛騨、次は神戸牛の神戸だ。飛騨牛の料理はほとんど和風だったが、神戸牛は洋風が似合う。今回は三宮駅近くのステーキランドという店で神戸牛のステーキを食べた。そこで、思ったことがある。鉄板約ステーキは利益率のよいビジネスだなと。
普通、飲み屋の客単価は3000円くらいだろう。ステーキハウスも同程度だろう。しかし、ステーキハウスは客の回転が速い。飲み屋では、2時間は居続ける。しかし、ステーキハウスではいいところ30分くらいだろう。長くても1時間は超えないはずだ。特に、ステーキハウスでもカウンターに座る鉄板焼きの形態では長く居座る客はほとんどいない。利益率が同程度であれば、回転率の差で2~4倍の収益が期待できる。
また、居酒屋に比べてメニューが少なく仕入れのコストもかからない。もちろん肉自体は高いが、利益率が変わらなければ種類が少ない分、楽だと言える。さらに全席カウンターなら店は狭くてもよく初期投資も小さい。ただし、満席で入れないことがあると機会損失は大きい。客の回転とマッチすれば理想的な店舗形態といえる。
このような優れたビジネスモデルは真似をしない手はない。特に同じブランド牛を売り物とする産地では有効だ。飛騨牛のステーキハウスがもっと増えると地域の活性化につながるだろう。高山駅前にステーキハウスがほしいところだ。

日本の水を輸出するには

日本は資源の乏しい国だ。しかし、それでも輸出に頼らざるを得ない。
水は日本が輸出できる可能性がある数少ない資源だ。いわゆる水ビジネスとは異なり、直接ミネラルウォーターを輸出する。
日本の周辺を見渡しても、安全な水が豊富にある国は少ない。工業用水すらない国もある。日本は自然の蒸留装置あるいはミネラルウォーター製造機ともいえる。
しかし、日本水はいわゆる軟水で物足りない。世界で競争するには、硬水やガス入りも必要だ。工業的に作るのでは割に合わない。なるべく自然なままを活かすべきだ。
もう一つ足りないのはブランド戦略だろう。日本人だけが分かる名前ではなく世界に通用する名前が必要だ。

2010年9月16日木曜日

これからの「道徳」の話

TV放送「白熱教室」で有名なマイケル・サンデル教授の著書「これからの『正義』の話をしよう」が出版され、教授の考えや主張がよりわかりやすく伝わるようになった。これとTVでの実現を見れば、おもしろい授業の在り方が見えてくる。
今まで、おもしろい授業というとおもしろいTVと同様に笑わせることだと考えている人も誤解に気がつくだろう。たぶん、多数派ではないと思うが、中には真剣に漫才師こそ最高の教育者だと信じている子供もいる。本当の面白さは自分で考えることの先にあるのだと気付いてほしい。
教授の授業法をすべての授業に応用することは容易ではない。さらに工夫すれば応用範囲は広がるかもしれないので研究する価値はある。しかし、どこまでも一般化すればよいというものではないし、それ以外の方法も検討に値するので、安易に適用すべきでもない。
しかし、いわゆる道徳の授業には素直に適用できるだろう。おそらく今まで道徳の授業は決して面白いものとはいえなかっただろう。しかし、おもしろい道徳の授業があるのだということが具体的に示された。しかも、多くの人が知った。今度は、教育現場がこの流れにどれだけ追随できるかだ。有効な方法ならオリジナルでなくてもよいので、どんどん真似すべきだ。しかし、やり方だけ真似してもだめだ。自分自身がその道徳問題について一度は真剣に考えたことがなければ多様な考えの本質的な差を適切に指摘することはできない。そのためには道徳専門の先生が必要かもしれない。あるいは存在してよい。近い将来、多数の和製サンデル先生が現れることを期待したい。

2010年9月10日金曜日

Unplugged Programming

Unplugged Computer Scienceという本がある。計算機科学をPCを使わず学ぶというものだ。PCの使用が不適切な子供にも計算機科学を教える教材だ。
そこまで低学年とはいかないが、PCなしにプログラミングの原理を学ぶ教材を考えてみた。
https://docs.google.com/fileview?id=0B-jRsgPew5h_NTM4NTQ0ODUtODNlNi00Y2U0LWI4ZTgtYThiMDM2Y2JiM2Zj&hl=ja

時間割から見た単位

最近では単位制の高校もあるようだが、基本的には小学校からずっと時間制だろう。
時間制では一定の時間を授業に参加すればよいことになっている。
成績は理解度を表すもので、理解できなくても、つまり成績が悪くても困りはしない。
このため質が不均一となり、習熟度別コースなどに分ける工夫が必要になる。
大学が単位制をとる理由は、それがおのずと習熟度別になるからでもある。うまく習熟度別に分類されるかどうかは定かでないが、少なくとも理解したというしるしにはなる。
単位制のために大学の時間割は虫食いだらけで、時間の利用効率が極めて悪い。
そこで、発想を逆転させ、時間割に合わせて単位を考えてみよう。
大学は124単位で卒業できる。年で平均すれば34単位だが、4年生は特殊な年だ。ここでは就職活動もあるし、124単位以上を目指してほしい。
そこで、3年間で120単位を目指すことにする。平均40単位/年だ。
1科目通年4単位とすれば、たかだか10科目にしかならない。
時間割が月曜から金曜まで各5時限ずつだとすると、週2日通学するだけでよい。本来は残りの時間を自習に充てるべきだが、そのようにしている人はほとんどいない。非現実的な仮定をしてもしかたない。
そこで、本来の自習にも単位を与えると同時に授業自身の単位を減らし、薄く広げる。
1科目通年2単位とし、週2回にすれば、週4日通学することになる。それでも1日余るのでクラブ活動をするには全く支障はないはずだ。
このように現在の大学の一般的な方式は単位を安く見積もりすぎている。そろそろ実際に合わせて1/2にする必要があるだろう。

英語6年、数学3年、プログラミングはわずか1年

であきらめてしまう。
学生は中学高校と6年間通じて英語を学ぶが、それでも英語は習得できない。
それにはいろいろな理由が挙げられているが、理由はともかくその認識は広く普及している。
英語で話す内容がないのであって、話せないわけではないという反論もあるが、実際話せない人は非常に多い。
むしろ話せる人の方が例外といえる。これは実態であり、現実だ。
英語が6年かけて出来ないことを、なぜ半年か1年のプログラミング言語ならすらすら書けるようになると思うのだろう。
もちろん授業を受けている学生にはプログラムを書くという夢があり、そのために授業を受ける。
しかも大学も書けるようにするために授業をする。しかし、実際にはなかなか上達しない。
プログラミング言語も英語と同じだ。上達するには訓練が必要だ。
しかし、今のプログラミング教育では文法を教えるだけに終始してしまう。
正確には基礎教育としてのプログラミングは文法の習得にとどまる。
本来、そこから次のステップとして専門教育としてのプログラミングが始まる。
しかし、その過程が抜け落ちている。いきなり座学になったり、他の専門科目の片手間になる。
応用問題は分野や科目ごとに異なるので片手間であっても、それぞれに任せる必要があるだろう。
しかし、一般的な手法まで抜け落ちているのが実情だ。
話が脱線したが、問題は期待と実際のギャップが大きいことだ。
英語だって最初は勉強すれば話せるようになると信じていただろう。
しかし、やってみるとかなり難しいことが分かり、6年続けてあきらめの境地に達したのだろう。
もっとも中学はともかく、少なくとも高校で行われているのは受験英語であり、話すための実用英語ではない。
これはある意味で免罪符となっている。それでは大学で実用英語に切り替わりすぐに話せるようになるかといえば、それはない。
実際、できる人はますますできるようになり、できない人はさらに忌避するようになる。
6年間の間に適性がはっきりしてきてしまったのだ。あるいはやる気がうせてしまったかだが、やる気が維持できることも適性の反中だろう。
6年かけて判断した適性を、プログラミング言語に関してはわずか半年で判断して、見切りをつけてしまうのはどうしたことだろう。
中学に入学して初めて英語を習った時、半年で何ができたか考えてみるとよい。
ここまでプログラミングと英語を比較してきたが、どちらかといえば数学のほうが近い。
数学に関しては中学の3年で見切りをつけ、高校では文系と理系に分かれる。しかし、これもあきらめがよすぎる。それを社会も助長させている傾向がある。あまり感心できない。
実際には、文系の経済学部で下手な工学部より高度な数学が使われることもある。数学の試験のない経済学部などありえないだろう。
文法主義の英語では、教わった文法に合わせて意味の通る文を構成する。このような方法ではリアルタイムに話すのは難しい。
このような構成法は英語よりむしろ数学でこそ使われる。
数式で問題の意味を表現する。この方法が実はプログラミングそのものといえるほど近い。特に関数型プログラミングではほとんど同じといってよい。そこにアルゴリズムを少し加えればプログラムになる。
表現された数式から答えを導くために中学・高校の6年間が費やされている。
特に受験数学では正確な導出が要求される。
この過程はプログラミングではアルゴリズムに該当する。問題の解き方がわからないとき、6年かけて解き方を習ってきた。
大学入学時にはある程度の解き方の技術が身に付いているはずだ。しかし、問題の解き方とプログラミングのアルゴリズムはなかなか一致しないようだ。
もちろん人間の思考法と機会に与える手順の差はある。
それでも簡単な問題に対しては自分で解き方を導く訓練は受けてきたはずだ。それが応用できていない。
つまり本質は応用できないことだ。
これは受験数学に明け暮れ、文章問題をおろそかにしてきた付けだろう。新学力基準で日本が国際的な水準から遅れてきているのはそのためだ。
これがプログラミングにも影響している。
つまり、プログラミングは実際に答を導出する過程ではなく、問題を表現する過程であるからだ。これは文章問題に他ならない。
そして実社会の問題はほとんど文章問題だ。
この根深い欠陥を1年で矯正できるはずがない。したがって、1年であきらめるのは早すぎる。
総合的なレベルアップが必要だ。