2010年10月11日月曜日

原作の直接輸出

日本のアニメが世界に普及していくという構図が一般的かといえば、かならずしもそうではなさそうだ。むしろ、アメリカンコミックスの方が世界戦略に乗りやすい側面もある。日本のアニメは大人にも通用する半面、大人受けする子供向きでない内容を含んでいることが多いからだ。宮崎アニメもそうだ。
これを改める必要があるかどうかは議論の余地がある。大人にも通用するアニメが日本の特徴かもしれない。しかし、アメリカンコミックはその制限の中でうまく大人も取り込んでいるので、方法がないわけではないということだろう。まだ、日本のアニメは世界戦略への内容的なてがかりをつかめていないということだろう。
このような書き出しで始めたのは、アニメの原作自体を国際化することがそのきっかけになるのではないかと考えたからだ。アニメが国際化されるには、日本での成功を受けて、行われることが多い。しかし、そのときにはすでに内容的な変更が本質的なあらすじにまでおよぶくらいリメイクしなければならないほどに及ぶ可能性がある。よい原作をアニメ化の前に国際化することで、アニメ自身が最初から国際化できるかもしれない。
また、よい原作がアニメという間接的な手段でしか世界に評価されないのも残念だ。もっと作家が評価されてよい。iPadなど電子書籍が世界で広まる中で小説の方が容易に国際化できることに気づくべきだ。
原作を国際化するには英語化する必要がある。原作者自身が英語化するのは無理だろう。だから、原作者の作風を理解する翻訳が必要だ。日本の翻訳者は英語の作品を日本語に翻訳することが多く、逆は少ない。それでは、このような仕事に十分とはいえない。新しい時代の翻訳者が必要とされているのだと思う。
しかし、アニメやその原作の人材を生み出している専門学校は、あまり英語教育に力を入れているように見えない。また、専門学校生の中にも英語の勉強が嫌で大学を選ばなかった人もいる。よって、相性はかなり悪い。しかし、このような人材がいま必要とされていることは確かである。とすれば、大学からそのような人材が出てくるのを期待したい。しかし、大卒にとっては翻訳者レベルの技能があれば、あまり職に困ることはないだろう。そのような人材があえてアニメ原作に取り組むかどうかは、この市場の先駆者となる意思があるかどうかにかかってくる。信念が必要だ。

2010年10月5日火曜日

著作権と環境

この二つは一見別物に見える。しかし、論理の下で結びつくことがある。
我々は、ほぼ毎日のようにビデオ録画をしている。多くの録画装置が販売され、多くの家庭でほぼ24時間稼働している。特に最近のビデオレコーダーはHDDが搭載されているので、24時間動かすのが当たり前になっている。
このような状況を環境問題の側面から眺めるとゆゆしき事態だ。家庭での電力消費をなるべく減らしていかなければチャレンジ25は達成できない。チャレンジ25の方を反故にするという選択肢もあるが、その分日本以外の誰かが努力しなければならない。そのような無責任は恥ずべきだろう。
そのような背景で、先のビデオレコーダーについて考えると簡単な解決策がある。誰かが1回録画し、それをネットで共有することだ。しかも、1度ダウンロードすればキャッシュできるようにすればなおよい。このような解決策は誰でも思いつくが、決して実現されない。それは法律が許さないからだ。特に著作権が問題となる。
しかし、著作者の権利を守る著作権だが、著作者の権利と地球(すなわち人類全体の命)と比較すればどちらが優先されるべきかは明らかだ。環境問題の解決のために著作権が制限されることも考慮に値する。
もちろん著作権を厳守しながら地球が救われるならそれに越したことはない。しかし、ますますストリーミングメディアや放送が普及していく中で、それによって消費されるエネルギーも無視できない。
政策は、どのような社会にしたいかという方向性を示すものでもある。政策として著作権をとるか環境をとるか選ばなければならない時代が来るかもしれない。

2010年10月3日日曜日

最小不幸社会の合理性

菅直人首相が提唱する最小不幸社会論は何かと批判が多いものの全くの暴論という訳ではない。
最大多数の最大幸福という理念はよく知られているが、最小不幸はこれとは異なる。本来の中流の意味とは異なるが、日本の中流はあくまで上流と下流の中間的な立場である。最大多数は常に中流層であり、その幸福を目指すと、中流と上流の差が小さくなる。しかし、下流は取り残される。しかし、最小不幸論は不幸が最大化している下流に焦点を当てて、その解消をする。よって下流と中流の差が小さくなる。
これには様々な異論が考えられる。努力が報われる社会であるかどうかも一つの論点だ。下流の引き上げは安易なばらまきとなりやすい。その結果、下流が努力を怠り、中流の努力が報われない。
しかし、これはやり方の問題だ。上流の富が下流に分配されるだけなら問題ない。しかし、上流だけを資金源とすると救済できる人数も限られる。まさに最小限の最大不幸の最小化だ。この範囲の政策であれば有効であると言える。しかし、規模は小さいので、日本全体への発展には繋がらない。あくまでも傷口をふさぐ応急処置と言える。
そもそもこの程度のことは一般的な福祉政策の範疇である。それが合理的でないはずがない。
しかし、購買層としての中流が形成されなければ経済政策として成り立たない。福祉政策だけで下流から中流に引き上げることはできない。