2009年2月6日金曜日

グループ学習における国民性

グループ学習が注目されているが、どうも国によって国民性の違いに根ざす差があるように思える。
フィンランドメソッドに代表される欧米流のグループ学習では、まず個々で自分の意見をまとめ、それを集団の場で議論する。つまり、アイデアを出す過程は純粋に個人主義だ。また、グループ討論の場では、相手が一生懸命考えた意見を尊重し、きちんと耳を傾ける。しかし、自分の意見と違うと思えば、遠慮なく批判する。その際、常に合理性に基づいて議論するという態度が求められ、それを学ぶ場がグループ学習でもある。もちろん、各自の得意を生かし、不得意を補う効果もある。
一方、日本のグループ学習では、いきなり雑談が始まり、雑談の中からアイデアを拾い出す。まったく考えがないというわけではないが、不十分なアイデアでも開示し、相手の反応を見る。思考あるいは発想の過程を補助してもらおうという考えが含まれている。そして、そのまま議論に流れ、意見交換をするが、合理的に判断するより多数決に依存する傾向が強いように思える。あるいは声の大きい者の意見に集約される傾向といってもよい。このような方法は合理的とはいえないが、ある意味では今はやりの集合知にも似ている。つまり、合理性より実用性を重視した意志決定とも考えられる。
このような差は、学校の教室の中だけでなく、会社の会議、果ては国会でも行われている。日本式議論は、おおむね正しい結論に迅速に到達するが、必ずしも合理的ではない。しかも、議論の場に、合理的に判断し、方向性を示せるリーダーがいないと、議論が空回りすることも多い。
このような方式の違いは、どちらが優れているかが問題ではなく、明らかに存在するということを意識することが重要だ。日本人が特別というわけではなく、広く行われている方式だ。グループで意志決定しようとしているときに、どちらの方式が適しているのか、あるいはどちらの方式で進行しているのかを判断して、適切に進める必要がある。

0 件のコメント: