2010年1月1日金曜日

博士学生の就職

一般的に大学院には二つの課程がある。修士課程と博士課程だ。
修士課程と博士課程は大きく異なる。修士課程までは学部も含めて独自基準で評価される。しばしば、その評価はいい加減で甘くなる。それでも一定の成果は認められるために修士号を受ける資格はあるのだが、博士の基準に比べると大きな差がある。博士課程では学外の基準で評価される。その評価にばらつきがないとはいえないし、実際かなりあるが、それでも極めて公正かつ厳密に評価された結果であることは誇れるものである。大学は外部基準を時代に合わせて選択するだけだ。
多くの理系大学院では査読付き論文誌への採録を基準として採用している。この基準は厳しいと言えば厳しいが、甘いと言えば甘い。厳しい理由は、査読では非常に細かな点までチェックされ、少しでもおかしなことがあると落とされるからだ。決して間違ったことが書けないのはよいとして、思い切ったことも書けない。予測を書いてしまうと、証明が済むまで落とされるからだ。甘い理由は、そのような不自由さがあっても、ある程度コツを飲み込めば、論文を書くことはそれほど難しいことではなく、それ故論文を一つ書くだけなら余り手間ではないからだ。よって、最近では基準も二本以上しかも英文へと変化しつつある。
最近では博士課程を修了したポスドクの就職が問題となっている。ポスドクは、日本でもっとも優秀な人たちといってもよい。まだ、権威こそないが、実質的に研究を行っている人々であり、分野を限れば指導教員より深く理解している。このような人々の能力を十分に活用できず、また報いることができないようでは、日本の科学・技術が廃れてしまう。
ポスドクの就職がよくない原因は、大学や研究所を拡大できなくなっているからだ。大学は少子化のため、企業の研究所は企業本体の業績悪化のためだ。業績のよい企業の研究所は人を増やしているが、ここにもミスマッチがある。
博士号を取得するには、学部から数えて9年を要する。つまり、9年前の予想で進路を選択している人が多く、しかもその優秀さは専門性が強すぎる。よって、ワーキングプアを覚悟してテーマを貫徹するか、専門性を放棄して柔軟になるしかない。個人レベルで博士課程の学生ができることは、かなり限られる。どちらを選択すべきかは個人の自由だ。しかし、ポスドク問題を解決しようという方策の大半はワーキングプアを目指すものだ。
例えば、研究助手としての職を増やす方策では、雇用する大学には都合がよいが、将来の保障を確約できるものではない。社会的な成功者として認知されない。研究助手から教授へ昇格できるものは、ごく一部に過ぎない。これは国家公務員の競争より酷い。ポスドクは生きるために天下りしなければならない。
純粋な科学者を目指すものならそれでもよいかもしれないが、世の中の多くの研究者は経済的な成功も目指している。そのような人たちは、今のテーマを活かしながら次のテーマへ移っていくべきだ。そもそも長い一生に比べて、テーマを選択する時期は短い。一生かけるテーマを見つけたら、それを追求してもよいが、若手のうちに追求してもなかなか成果はでない。もう少し段階的に計画的に研究するべきだ。
よって、博士は優秀な能力を活用できる場所を自分で探すべきだ。博士課程の学生はあまり就職活動をしたことがないかもしれない。しかし、これからはそうはいかない。課程が変わるときに、今から5年後を予想し、人が不足する分野へ乗り替えるべきだ。これは専攻を変えるという意味でもよいが、テーマを変えるということでもよい。テーマを変えることは時間的な不利を招くが、将来就職できないよりずっとよい。具体的には、純粋科学から応用科学へ移ることだ。

0 件のコメント: